(上部に インデックスがあります。また左右の幅を調整し見やすくして,お読みください)

ご感想は

≪連想の始まり……≪
第1話 『中村方式』
高知を出た列車は、雄大な高知湾を左手に見て進み、やがて四国最南端の駅に滑り込む。そこに足摺岬へと通じる人口3万の町がある。町を貫いて流れる川は、日本有数の長さと清流を誇る大河、四万十川(しまんとがわ)。碁盤の目のように整然と区切られた町並みは、土佐の小京都と呼ぶにふさわしい。その町の名は、中村市。

「今日の宴会、みんなそろったかな。」「えーとまだ、斎藤と八幡が来ていませんが」「それではだめだな。時間すぎてるが少し待とうか」
「しかし、料理も出ていることだし、先に始めませんか」
「そうだな。二人くらいなら先にやろうか。それじゃまず1回目の乾杯」
会合や宴会や飲み会などで、遅れて来た人を待たずに定刻どおり始めることを、このやり方の発祥地中村市の名をとって「中村方式」という(中村市は市町村統合により現在四万十市となっている)。

飲み会といえば……≪
第2話 『下戸』

酒宴があまり得意でない私は、酒を進められると次のように答えてかわすことにしている。
「昔からの諺にあるように、『下戸にごはん』」
酒宴では、少し早めに行き、途中で抜け出しやすい位置を強引に確保する。その場所は大体柱を背にしている。そこで、もっともっと奥へと誘われたらこう答えることにしている。
「楽しみは、後ろに柱前に酒、左右に女、ふところに


≪おといえば……≪
第3話 『地の塩の箱』

学生時代のことである。担当教授の部屋の壁に、小さな箱が掛けてあった。手作りで飾り気のないその箱には、「地の塩の箱」と書かれていた。地の塩とは聞きなれない言葉であったが、辞書によると「塩が優れた特性を持つことから、転じて社会の腐敗を防ぐものの意で聖書の言葉」とあった。
その箱には、さらに「困った人は、自由にこの中のお金をお持ちください。余裕のある人は入れてください」といった主旨のメッセージがあった。
この電気系の講座を担当するお堅い教授が、こんな人間的な一面があったのかと見直す思いであった。そしてこのことは、地の塩という言葉を記憶しただけで、長く忘れていた。

ところが最近、この古い記憶を思い出すことがあった。新聞によると、全国各地に置かれていた助け合いのための「地の塩の箱」が次々に廃止され、最盛期700以上あったものが、ついに最後の3個になったという。
先生の箱も、このうちの一つであったのだ。そこでさっそく我が家のリビングにも、「家族版地の塩の箱」を設置した。そこにはやはり、「お金に困った人は自由にお取りください」と墨書し、二万円と小銭を入れた。
しかし、我が家では無駄使い名人の娘が、さっそく失敬しその後も引き出すばかりで、一向に不幸な人のために貯まっている様子はない。改心した
が入れるようになれば、本物の地の塩の箱になると思っているのだが………。
(畏友成文社主宰南里功の報によれば、地の塩の箱の運動は、詩人であった江口秦一氏によって昭和31年に始められた。マタイ伝の「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、なにによってその味がとり戻されようか………」から命名され、無償の愛の実践のため、募金箱が各地の駅や繁華街に設置されたという。箱には鍵がなく、困った人やお金のなくなった時は自由に持ち帰ってよかった。これで救われた人も多いといわれ、善意の輪のシンボルとなった。)

子供といえば……≪
第4話 『銅鐸の絵その1』

銅鐸」は、銅と錫の合金できた高さ40cmほどの円錐形をした古代の鐘である。作られた初は金色に輝いていたと想像されるが、地中から発見されるものはロクショウを吹いて緑青色をしている。
畿内を中心に出土し、現在までに430個余りが見つかっている。668年近江遷都で建立された崇福寺(すうふくじ)造成時にも発見されたが、当時でも何であるか分からず、早くから伝承が途絶えていたらしい。

銅鐸を作るのに使われた鋳型も出土していて国産であることは確かであるが、製作目的などは分かっていない。弥生時代を通じて作られ伝世されたが、弥生末期になってなぜか人里離れた山中深く埋蔵された。
銅鐸の表面には、整然とした幾何学模様が浮き彫りされている。僧侶の着る袈裟に似る“袈裟襷紋(けさだすき)”や水の流れる様子を図案化した“流水紋”などである。

そして一部の銅鐸(正確には最近加茂岩倉遺跡から発見されたものも含め60数個)には、「古代の絵画」が見られる。描かれたものは、シカ・サギ・魚・イノシシ・人などで、少数ながらかえる・スッポンといった水中動物、イモリ・ヘビ・蜻蛉などの水辺に住む小動物、カマキリ・クモといった昆虫、また倉庫・船などもある。

ところで、線で描かれたこれら全ての絵は、なぜかこの上なく下手である。ちょっとやそっとの“絵音痴”ではなく、筋金入りの稚拙さである。
例えば、人は簡単な数本の線で荒っぽく描かれているし、シカも手足胴などの形がアンバランスである。しかも銅鐸は弥生時代400年間を通じて作り続けられたが、どの時代のものも同じように稚拙で、その下手さ加減を忠実に何代も伝承し続けている。

銅鐸そのものは芸術的で洗練された形であるが、そこに描かれた絵はそうではなく、その高い製作技術と大きく反している。
銅鐸の絵の幼稚さは、同時代の他の遺物でもみられる。例えば弥生土器の中には、人や船や高床式建物などの絵が描かれたものがある。ところがそれらも、銅鐸の絵に輪をかけてまずい。さらに古墳の壁画、例えば大阪府の高井田横穴古墳の玄室や羨道には線刻で人や船や武具など多くの絵が描かれているが、そのどれもがまた全くうまくない。

一方芸術的で写実的な絵もある。例えば1万6千年前の旧石器時代後期の遺跡といわれるスペインのアルタミラやフランスのラスコーやフォン・ド・ゴームの洞窟に描かれた絵は、野牛・イノシシ・馬・シカ・マンモスなどの躍動する姿が写実的に、点描法や色彩で濃淡をつける陰影法などで見事に表現されている。また古代エジプトやギリシャでは、芸術性の香り高い絵や彫刻が多く作られた。

また、燃え上がる火にも模され火炎式と呼ばれる美しい縄文(紋)式土器、馬や鹿や人などがリアルに模刻された形象埴輪などもある。
このように銅鐸製作の前には、芸術性高く写実性に富んだ作品が数多くあった。にもかかわらず、銅鐸や弥生土器に描かれた絵のみがひとり、このレベルなのである。古代にあった芸術性がなぜ伝承されなかったのであろうか。また銅鐸の製作者は、もっとましな絵が描けなかったのであろうか。
この正論に対して、銅鐸の研究者は次のように反論する。すなわち当時は、絵など描くことはほとんどなかった。そのため、何の練習もすることなく描いたのでこうなってしまったのだと。

しかし、この見解も説得性に欠ける。「地面などに絵を描くこともなかったのか」「多くの中に一人も絵心のある秀才がいなかったのか」「400年も継承して描き続けたのなら、習熟や改良があったのでは」「シカやサギなどは、どこにでもいる動物でそれを見て写実的に描けたのでは」「銅鐸といった貴重なものならもっとうまい絵を描くことを考えたのでは」などである。銅鐸の技術者また多少とも絵心のある製作者なら、また何年も何十年も作り続けたのなら、もう少し実物に似た絵が描けたはずである。
私は、この謎について決定的な答えを知っている。それを、次の話しの中で明らかにする。


≪さらに続く……≪
第5話 『銅鐸の絵その2』

「銅鐸に描かれた絵のどこが稚拙なのか」、それを幼児の絵と比較することで明確にする研究が進められている。国立歴史民俗博物館の佐原真氏や春成秀爾氏が、幼児画研究者などの協力を得て行っているもので、その興味ある説を紹介する。

一般に5歳くらいの幼児に自由に絵を描かせると、ある特徴的な構図となる。それは多くの幼児に共通の特質であるが、成人にはほとんどない。学習によらない本能で描いたようにみえ、それは「原始的」で「特異的」である。
原始的な点では、@基底線上に並べる A重なりのない絵にする B画面の中に全景を入れる Cばらばらに広げて描くなどである。
@は、画面に水平線を引きそこの上に描くものを並べる方である。Aは、登場するものが重なりなく全てが見える描き方である。Bは、建物などの一部を画面外に出して描くのではなく全部を画面内に入れるといった方法である。Cは、全体の構図を考えてバランスよく描くのではなくばらばらに配置することである。これらは原始的で大らか、悪くいうと単に下手なだけの描き方である。
次に特異な規則性であるが、D関心のあるものを大きく描く E多視点の絵にする F多時点の絵とする G展開図を描くなどがある。
Dは、被写体を実物に比例してバランスよく描くのではなく、関心のあるものだけを中心に大きく描く方である。Eは、写生などでは一つの視点でするが対象物によって各角度を違える方法である。Fは、異なる時間の出来事を一緒にして同じ画面上に置くやり方である。Gは、機械の設計などで使う展開図のように開いた状態で描く方法である。個性的な描画ともいえるが、単に幼稚なだけともいえる。

これら原始的で特異な絵を、私たちは普通描かない。単に下手なだけの絵であるので、うまくなろうと心がける人は、これらから少しでも離れられるよう努力する。例外は、現代の前衛画家があえて試みるくらいであろうか。ピカソの絵に見られる、関心のあるものを大きく描くや多視点や多時点の絵などがそれである。しかし、天才ピカソのように写実的な絵の究極として達成できた境地でないことは明白である。

また、銅鐸の絵は実は“絵文字”で簡略化して描いた結果とも解釈できるが、それにしては文字数が少な過ぎるし、これら全部の特徴は説明できない。
結局、銅鐸の絵の稚拙さの謎は深まるばかりで、古代人の意図は暗い闇の中に閉じ込められたままなのである。
(私は、この謎を矛盾なく説明できる画期的な次の学説をものにした。「昔々、多分鎌倉時代か南北朝時代、一人の子供がいた。彼は偶然見つけた銅鐸に、シカや魚の絵を小刀でいたずら書きして埋め戻したが、それを発見して大騒ぎしている大人達を見てこれは愉快だと思った。そこで、いたずら仲間を総動員して銅鐸を見つけては、稚拙で意味不明な
を描いていった。自分達の絵を見た後世の学者連が、首をひねり考え込む姿を想像しながら………。やがてその風習は、子供だけの秘密のやり方として全国に広まっていった」)

といえば……≪
第6話 『まるで絵のよう』

「ここからの景色は見事だね。左に見えるのが法起寺の三重の塔、右が法輪寺の塔、そして真ん中が法隆寺の五重の塔、三塔が朝もやの中に並び立って、“まるで絵”のようだね」

「この絵はうまく描けていますね。左にあるのが畝傍山、中が耳成山、そして右が天の香久山ですね。秋の日差しにたたずむ大和三山が精巧に美しく描けていて、“まるで本物”を見ているようですね」
人は美しい風景を見てまるで絵のようだといい、よく描けた絵画を前にまるで本物のようだという。信じられない体験をして“まるで劇”のようだったといい、感動する
映画を見て“実際にあった”ようだという。

映画といえば……≪
第7話 『古い映画』

昔の「古い映画」を見ると、人や物が異常に早く動いている。人はこせこせと早足で歩くし、工場で働く人はすごいスピードで仕事をしている。畑を耕す人の鍬の早さは機関銃のようだし、自動車はまるでアクロバットのように道路を走り回る。

こんな忙しい映画を、昔の人は不自然と思わず見たのであろうか。
私はある時父に「昔の映画は早かったのか」と聞いてみた。答えは、そんなことを感じなかったとのことであった。それでは、一体今見る映画の早さは何なのであろう。
それは、私たちが「昔の映画を見ている」と、錯覚していることにある。正しくは、私たちは「昔の映画をテレビで見ている」のである。よく考えてみると、私も昔の映画を直接、例えば映画館や映写機で映して見たことはないはずである。私たちは全て、テレビのブラウン管を通して昔の映画を見ていたのである。

テレビは1秒間に30枚の静止画面を送るが、それが連続しているため人には動いているように見える。
一方古い映画の場合は、1秒間に18枚や24枚の静止画を連続させて動きをだしている。この枚数は“コマ数”と呼ばれるが、昔の映画を現在のテレビでは映すには、このコマ数を合わす必要がある。1秒間24コマで撮った映画は、テレビの30
コマに合わすためあと6コマ分を追加する。すなわち映画の1.25秒分を早回しして1秒に収める必要がある。その結果テレビで見る昔の映画は、この分早く動いて見えるのである。
「ものごとは見たこと全てが事実ではなく、真実は別にある」と古人は看破したが、この昔の映画についても当たっているのであろう。


コマといえば……≪
第8話 『数千万円を壊す』

かつてコンピュータのマーケティングの仕事をしたことがある。カタログ・広告・新聞発表・イベント・教室・DM(ダイレクトメール)・展示会などを企画し制作実施する仕事である。

展示会では、ホテルなどでプライベートショウをする場合もあったが、団体や社団法人が主催するショウへ出展すことも多かった。ショウは全国で大小合わせて年何千回も開催されているが、規模の大きなものとなると人の集まりやすい春秋に集中している。東京や大阪の港湾埋立て地に作られた広い常設展示場での開催では、数100社が出展する大規模なものも多い。
大きなコマ(区切られたスペース)での出展には、多額の費用が必要である。主催者に支払う出展料、制作業者へのコマ装飾代、それにナレーター嬢への人件費などである。中でも高額なのが、コマ内に建家を作り内装をする装飾代で、それは通常ロールスロイスが何台も買える金額である。

ところがショウ自体は長くても4〜5日で終るため、設営したコマもわずかな期間で取り壊すことになる。これは買ったばかりの数台のロールスロイスを、数日後に壊すのと同じである。最終日、苦労して作ったコマを手際よくしかも乱暴に解体していく現場を見ていると、実際そんな幻想もでてくる。

この大いなる無駄に対し、装飾業者に一度作ったものをなんとか再利用できないか
頼んだことがある。もちろん冷たく断られた。こちらから見れば無駄な散財であっても、彼らにとっては飯の種となる大切な浪費であるからである。
考えてみると、私たちが物を大切にして新しいもの買わないでいることは、メーカーにとっては作ったものがそれだけ売れないことである。特に展示会のように、終れば全てを破壊する大いなる無駄も、天下の金を回すという観点で考えれば結構世の中の役に立っているかもしれない、と壊されゆくコマを見て毎回思ったものである。

納得できないといえば……≪
第9話 『調和しない言葉』

単語を組み合せて文章を作る時、違和感のある文節や句(フレーズ)になることがある。例えば「このデーターは甚大なため……」が不自然に感じるのは、データーと甚大という単語が調和しないためである。しかし甚大を訓読みして「このデーターは甚だ大きいため………」とすると、こちらの方は調和がとれ不自然ではなくなる。
文章を作る時は、調和のとれる単語を組み合せるというのが、文章力向上の基本である。

しかしこの裏をかいて、普通使わない単語同士を組み合せればインパクトのあるフレーズが作れる。タイトルや広告コピーなどに見かけるテクニックであるが、この方法で作られた例を。
例えば「屋根の上のヴィオリン弾き」では、普通ヴィオリン弾きと屋根との関係は考えられないが、この違和感のある2つを組み合せることで印象の強いタイトルになっている。
「桜の下には死体が埋まっている」では、桜と死体という正反対なものを合わせてインパクトある表現になっている。「筋肉少女帯」や「鉄骨飲料」なども同様で、不思議な風情がある。

市のコンテストへの応募を呼びかける「市民の宿題」というキャッチコピーも、違和感を強調することで効果をあげている。もちろん、以上は言葉を単にランダムに組み合せたというだけではなく、実態を踏まえての表現である。
さらに、歴史上の事件ではそれがおこった場所(例えば「本能寺の変」や「赤壁の戦い」)、年号(「壬申の乱」や「応仁の乱」)、物(「モリソン号事件」や「黄巾の乱」)、人(「天一坊事件」や「大塩平八郎の乱」)などを取り入れる場合が多い。しかし、事件発生の月日をそのまま名称にした「
226事件」「515事件」「三月革命」なども、ネーミングとしては違和感を醸しながら実態を入れたよいアイデアであるといえる

数字といえば1……≪
第10話 『記念日』

商品を大量に長く販売するには、人々の生活習慣に組み入れることが有効である。「これをするにはこの商品が必要」「こうした時これが欲しくなる」「この場合これが不可欠」などである。

その典型が、カレンダーと連動してものを売るという策である。「この日にはこれを使う」「この記念日にはこれを買う」などである。
その日は、月日の語呂で決める場合が多い。例えば、1月4日は14をイシと読んで「石の日」、2月10日は「ニットの日」であると同時に「ふきのとうの日」、5月29日は「呉服の日」と「こんにゃくの日」、10月9日「トラックの日」と「塾の日」などである。

また、判じ物のように少し考え込んで分かるものもある。
例えば1月8日は「勝負の日」であるが、これは“一か八か”からきている(イチカバチカは“一か罰か”で、サイコロ賭博で一が出るかしくじるかの意といわれる)。4月10日は「駅弁の日」で、駅弁の弁の字が4と十を組み合わせのに似ていることによる。7月7日は「全国下駄の日」であるが、下駄の長さが七寸七分(約23cm)であることによる。8月10日は「帽子の日」であるが、英語のハットを数字の語呂合わせで810であることから決められた。11月18日は「土木の日」であるが、土と木を分解すれば十一と十八に分かれることによる。10月8日は「木の日」と「骨と関節の日」であるが、木や骨のホを十と八に分けることで名付けられている。10月10日は「目の愛護デー」であるが、眉毛を“1”目を“0”として、両眼で1010からきている。11月25日は「ハイビジョンの日」でハイビジョン画面の走査線(画像を描くために横に走るブラウン管上の線)が1125本であることによる。

また、毎月ありこれまた騒がしい“祥月命日”のような記念日もある。
毎月12日は語呂合わせで「豆腐の日」、15日は「いちごの日」、18日は「頭髪の日」、19日は「トークの日(話す)」、22日は「夫婦の日」、23日は「ふみの日」と「府民の日」 、26日は「ふろの日」、28日は「ニワトリの日」、29日は「肉の日」である。

このように、それぞれの記念日は主に数字の語呂合わせで決められるが、同時にその日に特定の商品を思い出し買ってくださいとの業者の遠大な“陰謀”が含まれているものもある。食べ物の例でみる。
1月1日はもち屋とおせち料理屋の陰謀である。2月3日は豆屋の陰謀でひょっとしたら豆腐屋も荷担しているかもしれない。2月14日にチョコレートを送るのは日本だけの風習で明らかにチョコレート屋のたくらみで、それに対する3月14日ホワイトデーのキャンデー屋やマシュマロ業者とつるんでいるのかもしれない。3月3日はあられ屋や甘酒屋や菱餅屋などの集団策略である。
3月21日のぼたもちと9月23日おはぎ(同じものを、ぼたんが咲く頃と萩が開く時に合わせて呼び名を変えているのも策略である)は共にだんご屋のダブルの奸策で、砂糖屋と小豆屋も後押ししているかもしれない。だんご屋はまた、5月5日の柏餅や9月16日(旧暦8月15日)の仲秋の名月の月見団子をも陰で操っていると確信できる。

11月15日の七五三の千歳飴はアメ屋の権謀で神社も一役買っているに違いないし、12月25日は遠く欧米の異宗教と共謀してのケーキ屋のはかりごとであり、12月31日の年越しそばはそば屋の計略で長野県も裏で糸を引いているに違いない。
(私がこの壮大なる陰謀に気づいたのは、最近盛んに喧伝しだした2月3日節分の日の恵方に向かってのり巻き丸かぶりという寿司屋のキャンペーンを知ってからである。)


≪さらに数字といえば……≪
第11話 『世紀という表現』

歴史上の年代は、「世紀」を使って表現する場合が多い。例えば鎌倉幕府成立は12世紀末とか、18世紀前半に徳川吉宗によって享保の改革が行われたなどである。

しかし、この時代の表現法は直感的に分かりにくい。
鎌倉幕府成立の12世紀末は1192年であり、12という数字から1100年代を想起する必要があるため、12から1を引き100倍して年代をだす。
一方私たちは
歴史上の年号を、数字の語呂合わせで記憶しているものが多い。先ほどの鎌倉幕府成立は「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」である。したがって、ことさら世紀を使う必要はなく、それを12世紀と言っても1101年から1200年の間とことと換算し直して考えている。これなら、いっそ1100年代後半という言い方のほうが実感ある。
本書ではこの年代という表現を標準とし、世紀表現は必要最小限に止めている


歴史といえば……≪
第12話 『歴史は本当にあったのか』

私たちは“歴史”を学校教育を通して長く勉強してきた。また卒業後も歴史を趣味とする人も多い。

歴史を学ぶとは、すなわち過去を知ることである。知った過去は、未来に対する指針となり、過ちを繰り返さないための教訓となる。偉人の生き方に心打たれるし、歴史上の愚人は反面教師となる。戦国時代の英雄の活躍に胸躍ることも多いし、古代のロマンと謎には興味が尽きない。歴史に登場する場所を訪れることで旅行の巾は広がるし、廃虚となった遺跡にたたずんで往時を偲ぶ楽しみもある。技術史を知ることで現在の技術の重要性が理解できるし、物事の説明に歴史から説き起こせば現在の位置付けが明確になる。長い歴史を説明することで伝統と正当性を誇れるし、その年号を暖簾の中に書き入れることもできる。小説家は歴史に新しい題材を求めることができるし、時代劇があることで映画のジャンルは大きく広がる。
このように、私たちの知見は歴史によって高まるし、そのステータスを活用することもできる。

しかし、歴史は“過去に存在した事実”なのであろうか。私たちが知っている歴史は、本当にあったことなのであろうか。ひょっとしたら実体のないものを、私たちは歴史と呼んでいるのではないのだろうか。そうした不安が、湧きあがる時がある。
歴史が過去に存在した事実であることを証明するのは、実は容易なことではない。私たちが実際に確認し認識できるのは、今目の前にある事象だけである。時間とともに消え去ったものは、現実としては認識できない。現実にないものは、単に人の意識や精神の中で存在しているに過ぎない。もし人々の記憶がなくなることがあれば、それは存在しなかったのと同じである。
新しい歴史的資料や遺跡が発見され、それが今までの歴史上の知見と一致した時、人々は歴史が事実であったと確認する。また
遺構を訪れて、そこに確かに往時があったと認識できる。そうして今までの記憶が、過去に実際に存在していたのだと安心する。

しかしやはりそれは認識のみで、歴史そのものは「人の意識の中」にしか存在しない。全ての歴史が幻であったとしても、人はそれに反論する何ら術を持たない。実際に目の前に、平城京があって、信長がいて、鳥羽伏見の戦いがない限り、証明のしようがないのである。(解剖学者で脳の研究で知られる養老孟司氏は、五感から入ってくる現実を「アクチュアリティ」、頭の中で作り上げた現実を「リアリティ」と区別している。そして、アクチュアリティなしにリアリティの世界を現実の世界と思い込む愚を戒めている。)


遺構といえば……≪
第13話 『継体天皇の杜』

古代には多くの謎がある。その謎があるほどに、古代史は面白い。
そして謎の古代史の中でも、特に想像の翼が広がるミステリーは、邪馬台国と銅鐸それに「継体天皇」であろう。
継体天皇は第26代の人皇で、西暦450年から531年まで実在したといわれるが、その出自には謎が多い。

継体の先代は25代武烈天皇であるが、記紀(古事記と日本書紀)にはその名の示すとおり、乱暴で残忍な人物として記されている。殷王朝の最後の王紂(ちゅう)が、同じく暴君として描かれ、周にとって代わられた話しと酷似する。そこには、断絶と世代交代の匂いがする。
武烈には子がなかったので、15代応神天皇の傍系の5代あとの皇族を遠く越(福井)から探し出し、皇位につけたがそれが継体である。しかし5代といえばこの間150年は離れていて、血縁を主張するには無理がある。

また継体は、都のある飛鳥に20年近くも入ることができず、その間軍事と交通の要所であった淀川流域で点々と三度も都を代えたという。ここには、武烈派旧勢力の抵抗が感じられる。
さらに継体の名自体にも、不自然さが残る。一般に天皇は死後、その事績にあった諱(いみな)が送られる。継体とはまさに、天皇家を継いだともとれる諡(おくりな)である。

以上、血縁・遷都・諱などどれをとっても、天皇家断絶の可能性は高い。あるいは、朝鮮半島の影響を受けた北陸地方の新しい王が近畿に進出し、それまでの大王家を滅ばした事実があったのかもしれない。
このような疑いは10代崇神天皇などにもみられ、万世一系(現125代今上天皇まで血筋が続いてということ)であるはずの天皇家も、初期の段階においては、あるいは多くが断絶したのかもしれない。

今その継体天皇が、507年に即位した場所とされる樟葉宮(くすはのみや)跡に立つ。そこは大阪と京都の中間淀川の東岸、うっそうとした原始林の中にある。案内板は、今も残る短い階(きざはし)の石が1600年前当時のままと伝える。
往事を偲びびつつ、一歩一歩踏みしめ石段を登る。
時の流れは全てを忘却の彼方に押し去るが、今眼の前にある木漏れ日に光る踏み石だけが継体天皇の往時を物語っている。汗や
が滴ったかもしれない古(いにしえ)の石だけが、微かに継体天皇の生きた証しを伝えている。

といえば血沸き肉踊る……≪
第14話 『少年探偵団』

“少年探偵団”という言葉には、懐かしい郷愁と共に、血沸き肉踊るロマンも含まれている。子供の頃探偵ごっこをしては、自分が少年探偵になった感触に酔いしれていた。

そして、その頃覚えた“少年探偵団の方法”がある。
それは、腕時計で方角を知るというものである。
方角を知るには、まず腕時計の短針を太陽に合わせる。すると12時の方向が、南となる。
この子供の時覚えた便利な方法は、今も大いに利用している。

方向といえば……≪
第15話 『八甲田山』

明治35年は20世紀が始まった次の年であり、御一新以来拡大してきた軍備を使って大国清にも勝利をおさめ、国運ますます隆盛する年であった。
一方各国の帝国主義に乗じて日本も領土的野心をあらわにし、満州(中国北部一帯)や朝鮮半島では同じ進出策をとるロシアと一触即発の危険な状態にあった。実際2年後には日露戦争が勃発するのであるが、その緊迫した中軍部は将来の
戦争を想定した訓練を繰り返していた。仮想敵国はロシアであり、戦いになればシベリアなどの極寒地での戦いは必至であった。
そこで、寒さに慣れている部隊に期待が高まり、東北の各部隊も寒冷地での軍事訓練を繰り返した。

青森にある第5連隊も、雪中での訓練などを始めていた。雪中訓練での軍事課題はいくらもあった。寒冷の中で銃がうまく撃てるか(分厚い手袋をしたままで撃つにはどうすればよいか)、凍傷にならないための装備は(軍靴の中をどうすれば凍傷にならないですむか)、寒い中での食事はできるか(握り飯は凍ってしまわないか)、兵站はうまくいくか(雪の中食料や弾薬を効率よく送るには)、雪の中で寝ることができるか(大部隊が雪洞の中で睡眠をとることができるか)など全てに答えを得る必要があった。

そこで青森第5連隊は、これらの体験のため雪中軍事訓練を計画した。青森を出発し雪の八甲田山を経て弘前まで230Kmを12日間かけて踏破するものであった。
軍では作戦や計画は参謀が練り、それを指揮官に示し指揮官が兵に命令して軍は動く。計画は指揮官ではなく、必ず作戦立案のプロ集団である参謀が作る。第5連隊でも連隊付きの参謀が、綿密な計画を練り上げた。そして連隊の中から強健で寒さに強い210人を選抜し、万全の装備で青森を出立した。時に明治35年1月20日のことである。

ところが、参謀がプランした完璧な計画であったが、出発した途端部隊は道を失ってしまった。そして雪の八甲田山中をさ迷い、11人がかろうじて救出されたものの、部隊の大部分が凍死した。この事件は、軍隊は死と隣り合わせであるとはいえ社会的に大きな問題となった。
そして、遭難原因の追及が始まった。この1月20日は、東北地方を猛烈な低気圧が襲い、今も残るマイナス41度という記録的な最低気温が北海道旭川で観測された前々日であったため、第5連隊が“ついていなかった”との声も多くあった。

ところが、この話しにはあまり知られていないもう一つ別の部隊の話しがあった。それはやはり同じ日に、第5連隊とは全く逆に弘前から八甲田山を通って青森に向かう隊があった。弘前にある第31連隊の参謀がプランして実行したもので、規模は少し小さかったが、この部隊は第5連隊の遭難を尻目に、誰ひとり脱落することなく無事に青森に到着していた。
したがって、もはや第5連隊は運が悪かったですまされないことになった。実際この2つの部隊の計画を比較すると、第5連隊が訓練ということで遮二無二に突き進む強行軍であったのに比べ、第31連隊のそれは雪の怖さの認識のもとに安全を見込んで道沿いの住人に次々と道案内を頼むことや、雪中行進は予想以上に体力を消耗するため休養を十分にとるなどの対策をとっていたことが分かる。

私たちは、この2つの事実から多くの教訓を得ることができる。そして同時にプランの善し悪しが結果を大きく左右すること、そのプランを作る参謀、企業ではスタッフの責任がいかに大きいかを知ることができる。

戦争といえば……≪
第16話 『フェイルセーフ』

かつてアメリカとソ連が、外交や紛争の場で覇権を唱える“冷戦の時代”が長く続いた。この時代、熱い戦争にまでエスカレートすることは免れたものの、戦争開始を示す「核戦争時計」はいつも数分前を示し、誤解やミスが全面世界戦争開始の引き金になる可能性があった。

こうした時代背景の中、偶発でおこる核戦争映画が多く作られた。その一つにアメリカ映画「Fail Safe」がある。原意は、“もし失敗しても必ず安全側になる”といった意味で、この言葉はその後流行語になり、また技術分野では今も使われている(電車のエアーブレーキなどがその例である)。
ストーリーは、こうである。戦略司令室を見学にきた国会議員を前に、将軍は得意げに訓練の様子を説明する。スクリーンには、水爆を積んだ米重爆撃機の機影が映っている。このシステムはフェイルセーフのもとで動いており、万一故障や事故がおこっても決して悪いことにならないと力説する。

やがて訓練も終了し、爆撃機が進出していた地点から引き返すよう命令を出すが、スクリーン上の機影はどんどんソ連領土に侵入していく。フェイルセーフが効かなくなったことを知った将軍は、慌てて大統領に進言する。大統領は国家の一大事に、防空壕からホットラインでソ連首相に交渉の電話をする。
この時ロシア語の通訳が呼ばれ、大統領から一つの任務が与えられる。「君の仕事は、相手の言葉を正確に訳すことである。しかしそれ以上に重要なことがある。相手が喋る言葉の裏に隠された情報、心の動きや感情の変化を逐一伝えて欲しい」と。

大統領は、今モスクワに向かっている爆撃機はミスで、水爆が落されても報復攻撃をしないように、これは単なる機械の故障で攻撃の意図はないと訴える。それに対し首相は、周囲と相談しながら交渉を続ける。
通訳は、揺れる首相の心情を「今迷っている口振りだ」「自信ないようだ」「決心した喋り方だ」と伝える。

しかし、時既に遅く水爆は投下され、モスクワは一瞬で蒸発する。米大統領は首相への提案どおり、自分の妻がいるニューヨークに自らの手で水爆を落す。しかし、同時に報復のためのロシアのICBMは発射されている、といった筋書きである。
ここでは、偶発の世界大戦が起こりうること、完璧に作られまたフェイルセーフで安全側に設計されたものでも完全でないことなど、多くの教訓がある。
しかし、この映画からはさらに学ぶところがあった。

一つは、ニューヨークに自らの手で水爆を落すことになった時に開かれた国防会議で、議長が「この国の将来にとって不可欠で避難させねばならない重要書類があるか」と下問するところである。すると、経済学者は言下に「ノー」と答える。営々と作り上げたきた人類の文化・技術・経済・政治・歴史なども、絶対に必要かと聞かれれば全てが実はそうではなかったのである。

また、ロシア首相との交渉で通訳が努力した表面に出ない情報の収集である。これは今の調査でもつうじる、重要な方法である。
なお、同時期に作られた偶発核戦争を描いた「博士の異常な愛情、または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」も名作であると同時に、タイトルの奇抜さに
驚かされる

驚かされるといえば……≪
第17話 『大きな冷蔵庫』

太平洋戦争が終って、アメリカ文化がどどっと流れ込んできた。
特に衝撃的であったのは、テレビ映画に映し出されたアメリカの家庭風景であった。その中で印象深かったのは食文化で、超大型の冷蔵庫にはありとあらゆる食材が詰まっていた。特大の牛乳瓶、ぶ厚いステーキ肉、珍しいピザ、憧れのアイスクリームなどが、これでもかとあふれていた。

こんな豪華な食生活をするアメリカ人に、雑穀でかろうじて
飢えを満たしていた日本人が勝てるわけがないと、その時しみじみと悟った

飢えといえば……≪
第18話 『インフラ』

アフリカ諸国が、旱魃や虫害で飢饉になると各国から援助の手が差し延べられる。飽食の国日本に住む私たちも、有り余る食料を送ろうと思う。送れば困っている人に届いて喜ばれると思う。足らないものは送ればよいと単純に考える。しかし、問題はそんなに簡単ではない。

送れば届くと考えるのは、私たちの感覚である。しかし送って届くには、その国のインフラストラクチャすなわち社会基盤ができてなければならない。食料を送ったが船が入る港湾がない、陸揚げできてもそれを国内に送る鉄道が整備されていない、地方に送られても部落まで届けるトラックの手配がつかないといったことがおこる。このインフラがどこか一つでも欠けていると、そこで物資は止まってしまう。確実に困っている人に届けるには、インフラの整備が不可欠なのである。

そして、これとよく似たのがラジオをプレゼントするという話しである。楽しんでもらおうとラジオを送るのであるが、電気がないところでは当然使えない。それではと電池式ラジオにしても、乾電池が購入できなければ実用にならない。私たちの周りには、電気は空気や水と同じようにあるので、このことに気づきにくい。
そんな時、なるほどとうなる途上国向けの新型ラジオを知った。エネルギーに電気や電池を使うのではなく、ネジのエネルギーを使うのである。人力でネジを巻くと、発電でき1時間以上は聞けるという。
うーん、これは“必要は
発明の母”を地でいく、しかも人のためになる製品であった。
(なおこの手巻き発電式ラジオは、防災用として国内でも発売されるようになった。)


発明といえば……≪
第19話 『エジソンの電球』

エジソンは、多くの発明・研究の中でも、「電球」の開発に最も心血を注いだといわれる。これは彼自身の言葉「私は電灯のために最も多く勉強し、また最も精密な実験を要求された」からも知れる。
エジソンが開発を始めた1800年代中葉であるが、当時電気を光エネルギーに変換する電球はなくはなかった。今でも電球の形としてその名をとどめるスワンなどが、盛んに研究し製品も出していた。

しかし、フィラメント(発光する部分)が白金などの金属であったため、抵抗値が低く、そのため多くの電球を電源に直列に接続する必要があった。直列接続では、一つが切れればそれにつながる全球が消える、また逆に一つだけをつけようとしても全てが点灯してしまうことになった。また金属製のフィラメントでは寿命も短く、結局実用的とはいえず普及もしていなかった。
そのため、街灯としてはもっぱらガスを燃焼させて明かりとするガス灯が、また屋内ではまだ石油ランプが幅をきかせていた。

こうした中、円筒式の蓄音機を開発し終えたエジソンは、それまでの電球やガス灯などに置きかわる新しい実用的な電球の開発に取り組んだ。まず彼は、従来の電球の欠点を改善するには、電源に並列に接続することが必要であると考えた。直列接続なら一つが切れても、他の電球に影響することはなかった。
そこで、彼は抵抗値の高いフィラメントの開発を目指し、身近にある木綿糸・木皮片・とうもろこしの茎・釣り糸など糸状のものを、粘土で包んで蒸し焼きにして炭化させ、抵抗値が高く丈夫な素材を探した。
しかし、そこでもう一つの壁にぶつかった。新しい電球作りの手本となるのは、既に実用されていたガス灯である。ガス灯は、一つの太いパイプでガスを送り各家庭で細い管に分配して“並列接続”している。例えば5つのガス灯をつけるには、太いパイプで1の量のガスを送り、各ガス灯で1/5づつに分ければ並列接続できる。

このアナロジーで考えると、1の電気を送って電球を並列点灯すれば、1/5の明るさになる。ということは、並列点灯する電球が多くなればなるほど暗くなると考えられ、これでは実用にならなかった。この考え方は、当時議論されていたエネルギー保存の法則からも当然の帰着であった。
しかし、エジソンは電気がガスなどとは同等に扱えないことを理論的に示すために、新しい法則を使ってこの問題を解いた。オームの法則である。
この法則では、1の量の電気を並列に接続した電球それぞれに送ることができ、それはエネルギーの法則にも反しなかった。

逆転の発想で高抵抗のフィラメントを作ること、そこにオームの法則を利用すること、この2つアイデアでエジソンは実用的な電球の開発に成功したのである。そして、漆黒の闇を明るく照らす魔法の球を作り出し、その成果から彼は「メンローパークの
魔法使い」と呼ばれるようになった。
(なお上記では電気と書いたが、オームの法則を使って正確に表現すると次のようになる。電源が定電圧で大きな電気容量がある限り、例えば100ボルト電圧の電源に100オームの抵抗値の電球をいくら並列に接続しても、全ての電球に100ボルト÷100オーム=1アンペアの電流が流れる。すると全ての電球は、100ボルト×1アンペア=100ワットの明るさで点灯する。)

魔法や謎といえば……≪
第20話 『いろは歌の謎』

「いろはにほへと ちりぬるをわか よたれそつねならむ ういのおくやま けふこえて あさきゆめみし えひもせす」は、子供の時口ずさんだ“いろは歌”である。音の違う47文字(“ん”を入れて48文字)を使って作ったもので、リズムをつけて歌うと全ての音が間単に覚えられるというわけである。
しかし実際は、この念仏のような言葉にもちゃんとした意味があった。
かな漢字混じりでは、次のように書く。「色は匂へど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ、有為の奥山今日越えて、浅き夢見じ酔ひもせず」。仏教の無常感を表現した五七調の名歌である。

いろは歌は通説では弘法大師(空海)作とされるが、実際はその死後の平安時代中期に完成されたといわれる。
ところが、この歌にある“恐ろしい謎”が隠されている事実を知る人は少ない。
いろは歌を7文字づつに分けて書き、その末尾を続けて読んでみる。すると「とがなくてしす」、すなわち「科なくて死す」と読めるではないか。科とは罪のこと、罪もなく殺されたというのである。

 
無罪を叫ぶ囚人が、監獄からこの歌にその悲運を託して発信したのである。無意識のうちに口ずさんでいた歌にも、恐ろしい謎が潜んでいた。
(なお、このように異なるひらがなを全て使った歌は、他にもあるが、名作とされるものをひとつ。「とりなくこゑす ゆめさませ みよあけわたる ひんがしを そらいろはえて おきつへに ほふねむれゐぬ もやのうち(鳥鳴く声す、夢覚ませ。見よ明けわたる東を、空色映えて、沖つ辺に帆舟群れいぬ、靄の内)」。こちらの方は、恐ろしい謎は含まれていないようである)
 

いろはにほへ
ちりぬるをわ
よたれそつね
らむういのお
やまけふこえ
あさきゆめみ
えひもせ


無罪といえば……≪
第21話 『推定無罪』

推定無罪という言葉がある。門外漢の私には、“推定”と“無罪”という調和しない2語を無理に合わせてインパクトを強めただけの言葉だと思っていたら、すごい考えがそこにあった。

それは、ある人が逮捕や勾留をされた時、裁判によって刑が確定するまで、その人は無罪と仮定して取り扱われる、またそれを主張できるというのである。うーん、なるほどうなるような
含蓄のある言葉であった。

含蓄のある言葉といえば……≪
第22話 『秀歌』

俳句は、五七五合わせて17文字に凝縮された、世界で最も短い詩である。
創作が比較的簡単な割には、高い文学性が認められているため、広く作られてきた。その中で、よくこんな発想ができるものだとつくづく感じ入ったものを。
『美しや 障子の穴の 天の川』………天の川の雄大さと眼前にある障子、誰があけたのだろうかその穴を通して天空を見ると、天の川のえも言われぬ美しさが、改めて感じられる。これほど雄大かつ庶民的な傑作が今までにあったろうか。
『向日葵や 信長の首 斬り落す』………夏のある日ふと道端を見ると、ひょろりとした向日葵(ひまわり)が暑い陽を受けている。その長く伸びた茎の先に重たく咲く真黄色の花を眺めていると、絶頂を極めた信長の姿がダブってくる。そこで、思わず切り落とす幻影が頭をよぎったのであろうか。向日葵から信長へは、突飛で卓抜な
連想である。

連想といえば……≪
第23話 『最悪事態』

技術者は、飛行機を見ると墜落すると感じる。橋を見ると、突然崩れ落ちるように思う。船に乗ると、沈没すると不安になる。車を運転すると、ブレーキが故障し暴走すると錯覚する。テレビを見ると、火を吹くように思う。コンピュータを操作すると、誤動作を考える。

技術者は、なぜこのような「最悪の事態」を想像するのか。
橋を設計したものは、模型を使って強度テストを繰り返し実際に橋が破壊したところを見ている。車の設計者は、ブレーキの限界を知るため破壊テストを何回も行って効かなくなった状況を知っている。コンピュータを作った技術者は、実験をしてコンピュータの誤動作を経験している。
結局開発者や設計者は、各種の耐久実験や限界試験を通じて、最悪の場面を実際見ているのである。

したがって、同じものを見ると反射的に最悪の状態を想像してしまう。悲しい技術者の性ではある。もちろんそんなことは、実験をして安全設計しているので、
絶対におこりえないのであるが………。

絶対ないといえば……≪
第24話 『空耳』

「この飛行機は、今朝9時ちょうどに大阪国際空港を離陸し、神戸、広島、大分上空を通過して、ただいま熊本空港に無事着陸いたしました」と、スチュワーデス(エアーホステス、スッチャー)が機内放送した。
しかし、このアナウンスはどこかおかしい。実際こんな放送をするはずがない。それは、「
無事着陸」して緊張が吹き飛んだ乗客の耳に聞こえた幻聴であった。

無事といえば……≪
第25話 『救命胴衣』

飛行機に乗ると決まって受ける“セレモニー”がある。救命胴衣の着け方や使い方の説明である。昔は全員のスチュワーデスが、アナウンスに合わせて実際に着てみせていたが、最近は投影型の大型ディスプレーに映すビデオで代用する場合もある。

そして、この説明を聞いた後「ああ、飛行機てやっぱりおっこちるのだ」と、思い知らされる。これはバスに乗って毎回非常ドワーの使い方の説明を受けるようなもので、奇妙といえば奇妙であり、また無用の恐怖感を乗客に押しつけているともいえる。(これと同じ理由で搭乗時に聞かれる年齢も、事故発生時のテレビの画面に出る年なんだなと思うと複雑な気持ちである。)
救命胴衣の着け方を聞いていたために、実際助かった人がいるのだろうか。飛行機の墜落事故で、救命具があったために救われたという人が何人いるのだろうか。
こんなことを考えながら、ひときわ強くシートベルトを締める
今日この頃である。

今日この頃から京で……≪
第26話 『宮と京』

古代のことを知るには、今に伝わる資料を調べることである。偶然発見される遺跡がそれを補強することもあるが、根本は古文書である。そして残された古代の文書には、当然支配者のことしか書かれていない。
したがって、調査は支配者の住居すなわち宮殿がどこにあり、その規模がどうであったかが主になる。
大王の住居は、合計70ヶ所が記録に残っている。主なものは、初代神武天皇の都とされる「橿原宮」、唐の侵略を恐れ内陸に都を移した「大津宮」、屋根が板葺になって珍しかったのであろう「飛鳥板蓋宮」(あすかいたぶきのみや)、大阪城の南に広大な宮域が確認された「長柄豊碕宮」(ながらとよさきのみや)、大和三山の中央に開かれた「藤原京」、 唐の長安を真似て造られた「平城京」、永らく幻の都であったがその全貌が分かった「長岡京」、千年の都として栄えた「平安京」などである。

ところで、ここであげた都の名前には「宮」と「京」の2つがあることに気づく。そして、これらは決して混同しないことも分かる。どう違うのであろうか。
答えは、天皇が住んだだけの「宮」に対し、「京」は皇居の回りに都市計画をして
全体を作り上げた場合をいう。70の中で、京はわずかに6つしかない。都市計画や建設は、昔も大変だったのであろう。

といえば……≪
第27話 『明日香風』

その皇子(みこ)は、雑草の生い茂る荒涼とした中にいた。燃える朱の柱に真白の壁、華麗を極めた唐風の宮殿も、今は朽ちて土に帰った。かつて文武百官が行き交い牛車(ぎっしゃ)が喧騒した華やかな大路も、今は荒れた小径になった。
今この地で遠くかすむ大和三山を望み、遷都し栄華を極める藤原の宮を見るにつけ、いっそう明日香の地の寂しさがこみあげてくる。
宮中に仕える女官たちの嬌声も絶えて久しいが、目をつむれば彼女らの姿がそこにある。その中を涼やかな明日香
だけは昔日と変らず、その袖を揺らして吹き抜けていく

「采女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久 (うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとおみ いたづらにふく)」

この志貴皇子の詩に、作曲家黛敏郎氏が壮麗な曲をつけた。日本古来の曲調に、明日香の昔が偲ばれる名曲である。
その歌を明日香にある伝飛鳥板蓋宮跡で聞くことができる。(明日香の旧跡で聞けるFM放送により流されている。またこの歌は、万葉旅行のおり氏の恩師でもある犬養孝先生が好んで歌われている。


といえば……≪
第28話 『風邪』

私はほとんど風邪を引かない。風邪をひいて熱をだした記憶がとんとない。10年に一度、少し熱がでるばかりである。
したがって、会社は病欠したことがない。ずる休みをする時でも「ちょっと熱ぽくって」と切り出すわけにはいかない。風邪を引かないと周りに宣言しているので、この手の言い訳は通じない。
私に輪をかけて丈夫なのが、細君である。彼女が熱をだしたのを結婚以来見たことがないし看病した記憶もない。ちょっと鼻をぐすぐすする時はあるようだが、寝込んだことはなかった。

こんな特殊体質の夫婦だから、その子二人は風邪に対して岩のように頑丈である。風邪をひいて寝たことがない(もちろん寝るのは風邪を引いてではなく、布団を引いてであるが)。
それがどうしたといわれるかも知れないが、とにかく私の家族は風邪を引かない。かといって健康家族というわけではないが、とにかく
風邪だけにはめっぽう強いのである

≪続いても風邪……≪
第29話 『風邪引きの法則』

私は、前述のようにほとんど風邪を引かない。生来風邪の菌に多少強い体質であるかもしれないが、それ以上に風邪に対するあることを実行しているからである。
それは、中学校で習った“風邪ひきの法則”に注意することである。その法則とは「風邪の伝染率は、距離の3乗に反比例する」という“定理”である。これは、期末試験にも3が正解の穴埋め問題として出題されたので、今もきっちりと憶えている。

風邪を引いている人に近づけば近づくほど汚りやすくなる、その確率は1mの距離を1とすると、50cmなら2の3乗の8倍になるというのである。誰が実験して確かめたのか、本当に3乗が正しいのか、個人差はないのかなど定かでないが、常識的には風邪を引いた人から遠くにいる方が安心であろう。そこで私は、風邪を引いていそうな人を発見すると、距離を置くことにしている。これで多少とも風邪を引かないでいるように思っている。
実はかつて風邪から守るもう2つのことを実行していた。一つは、“家に帰ったらうがいをする”である。しかし風邪の菌が鼻や喉の粘膜を通って体内に入り込むのは接触して10分であることを知り、家に帰ってからのうがいは意味もないことが分かり止めにした。

もう一つは“冬に薄着をする”ことである。人の手足は気温センサーで、ここで寒さを感じると、大事な臓器のある胸部と腹部を守ろうとして体温を上げる。そのため薄着では、体温が下がる以上に発熱がある。一方風邪の菌が体内に入ると、体は化学反応を促進させて菌を殺そうとしそのため体温を上げるが、それが発熱となる。それと同じ抵抗力のある状態を、薄着することで作ろうというのである。しかしこれも昔は効果あったかもしれないが、冷暖房が効いている今では意味がなくやはり止めている。
結局風邪引き対応3原則のうち、今も実行しているのは、“風邪を引いている人からできるだけ距離をおく”ことだけである