*城憲三先生については,ネット上の百科事典ウイキペディアに私が投稿した記事もご覧ください。ココ です。
今から二二00年前の弥生時代前期、一つの大きなエポックメイキングがあった。よく知られる水稲耕作の開始である。それは、それまでの狩猟や焼き畑農業に代わって水田に稲を植え収穫するといった単純なアイデアであったが、その後の技術・社会・文化に大きな影響を与えた。即ち灌漑の必要性から土木技術が発達し、より深い耕作のため鉄器が作られ、農耕のリズムを知るため天文学が始まった。さらに農地を求めて低地に村ができ、共同作業のための社会秩序が作られ、稲を多く持つものと持たざるものに分かれ、また魏誌倭人伝に記された“文化”が興った。
水稲耕作、それは稲という植物が本来もつ力以上の大きな影響力を人類に与えた。今から話しを進めるコンピュータも丁度、この水稲耕作と似ている。従来の機械より少し速く計算できるよう作られた単純な機械であったが、それが技術・社会・文化に与えたインパクトは計り知れないものがある。その原点に今から迫ろうとする。題して「日本で最初にコンピュータを創った男」。
1.ビッグバン以前
一九四五年(昭和二十年)以前にも何らかの形の計算機械は存在していた。その代表的なものが機械式の計算機で、カム・歯車・バネを組み合わせ数字を歯車の回転で示して計算するものであった。一七世紀に原型が作られた著名なライプニッツ計算機を元にしたものであった。ブルンスビガ型やハーマン型など改良・製品化されたものも多く、加減算だけでなく四則算が可能で電動式のものもあった。さらに穿孔カードから読み取った数字を計算する大規模な統計機械も作られたが、機械式の宿命で最高性能のものでも一0桁加算を毎秒一七・五回行えるに過ぎなかった。しかもこれら計算機械は精密加工が必要で非常に高価に付いた。
またリレー式の計算機も開発されていた。小さな制御電流で機械式の接点をオンオフし大きな電流を開閉できるリレーの特性を使って、機械式より少しスマートな計算機が作られた。米ハーバード大学のエイケンが完成したMARK・1が知られていたが、計算能力は低かった。
さらにアナログ式の電気計算機もあった。これはアナログ数値を演算するものであったが、方式上の宿命で計算を繰り返す毎に精度がどんどん落ちる欠点があった。
これら機械式・リレー式・アナログ式に代わって大量の計算をより速く行えるマシンが求められていた。コンピュータの発明というビッグバンの起こる前夜はまだ深い闇の中にあった。
2.ENIACの登場
第二次大戦中、科学者は砲弾の命中率を高めるため各種の条件下での射撃表を作る必要があった。一回の弾道計算には七五0回の乗算が必要だが、角度や発射速度などを変えて一つの射撃表を作るのに四000通りの組み合せがいった。これを一乗算一0秒かかる卓上機械計算機を使った人手に頼れば八000時間かかることになる。航空機からの爆弾投下や飛行体への攻撃など複雑化してきた各種の射撃表を揃えることは不可能に近かった。こうした中、米ペンシルバニア大学の若い科学者エッカートとモークリーらは機械や電気式では膨大な計算は到底無理であると考えて、新しい電子式の計算機を目指した。一九四三年(昭和一八年)に開発着手して、終戦までには間に合わなかったものの、一九四六年(昭和二十一年)七月に新型の計算機即ち、ENIACを完成させた。このコンピュータは全長三0・五m高さ二・四m、一三五uの床面積を占めた。計算する素子として機械やリレーに代わって一万八000本以上の真空管が使われ、表示用に三000個のネオンランプがあり、それらが五0万本の配線でつながれていた。計算は電子式に行なわれ毎秒五000回という画期的な高速が得られていた。しかし一五0KWという大電力を要しそのため二馬力のモータ一0台を使って冷やすという大掛りなコンピュータであった。
このENIACは、世界最初のコンピュータといわれている。それは従来と一線を画する三つの機能 −それは現代のコンピュータにも全て引継がれているのであるが− が採用されていたからである。電子式・二値方式・ストアードプログラム方式の三つであるが、真空管を使うことで電子化が図られ、0と一を電気的なオンオフ状態と対応させて二値化を図り、また計算手順はあらかじめ指示するストアードプログラム方式がとられていた。
3.城憲三の登場
ENIACがアメリカで新発明されている頃、日本では戦争による情報鎖国の厳しい状態にあった。そしてこのENIACの開発をいち早く知り、日本のコンピュータを最初に創り始めた人、それが城憲三である。城は一九二八年(昭和三年)に京都帝大を卒業して当時大阪帝大工学部精密工学科教授の職にあった。そして一九四六年(昭和二十一年)二月十八日付の週刊雑誌ニューズウィークでENIACと劇的な出合をする。そこには一ページ足らずでスーパープロブレムを解く天才が現われたとのENIACについての簡単な記事と写真とがあった。さらに二月二十五日のタイム誌にも北京原人などのニュースに混って科学欄に同種の記事があった。
城は、このころ「数学機器」と呼ばれた計算機の研究をしていた。数学機器の中には機械式計算機や微分アナライサなどのアナログ式計算機、また穿孔カード機(PCS)が含まれていた。そして数学的にいろいろな問題をより高速で機械的に解く必要性を強く感じていた。そうしたときENIACの開発を知った。彼は「米国の新式飛行機や原爆の蔭にこうした機器があり、戦争の如き極度に多質・大量の計算を要求される時代に、原始的な算盤のみしか知らぬ国はみじめになる」と彼我の技術差をみせつけられる思いであった。そして一九四七年(昭和二十二年)に出版された城憲三著増進堂発刊の「数学機器総説」にENIACを紹介した。この書籍の大部分はそれまでの研究の成果である機械式計算機や面積計、それに調和解析機などが大部分を占めていた。しかしその一部に三ページをさいて、「電子計算機の出現」という小項を設け、ENIACの性能機能を紹介した。そしてその結びとして「これまでの驚くべき統計機械も過去のものとなる。心憎いまでのこの計算機の発達を、今我々は率直に褒め、敬意を払い、驚き、そして学ばなければならない」と最大の賛辞を与えている。その後の発達をみればこの発言も当然であろう。が、その大きさ・寿命・速度・使い勝手どれをとっても実用からほど遠いこのENIACを高く評価した彼の深い経験と先見の明が窺れる。
4.阪大コンピュータの開発
ENIACの記事に大きな刺激を受けた城は日本初のコンピュータ開発を目指した。
ところで当時の日本の技術力は海外からの新情報が途絶していたため遅れていた。コンピュータの三つの技術、即ち二値方式・ストアードプログラム方式・電子式のうち、まず二値方式は、リレー式の計算機が一九四三年(昭和十八年)に開発されており、またその理論はイギリスの論理学者ブールによって一九世紀中葉に既に完成されていた。次にメモリ内のプログラムで計算手順を与えるストアードプログラム方式は、著名なノイマンが一九四五年(昭和二十年)に発表した「EDVACに関する報告書(草稿)」やその後の一連の論文があった。ノイマンはこの中で今でもノイマン型と呼称されるストアードプログラム方式を提唱していた(もっともこの大発見も、ENIAC開発者のエッカートは自分達のアイデアを盗んだと憤慨した)。このノイマンの功績によりプログラマやSEといった新人種が誕生するのであるが、いずれにしてもプログラムに関するある程度の情報は入手できた。
しかし問題は電子式であった。当時電子式コンピュータを作るには何らかの能動素子が必要であった。今でこそトランジスタ・IC・LSI・マイコンがあるが、当時はダルマ型のGT真空管だけであった。この真空管を使ってコンピュータを作るには多くの困難が予想された。まず二値方式の一つの処理のため一本の真空管が必要であり、これで計算を完遂するには膨大な本数となった。しかも真空管は寿命が短かく、通常で二000時間、後にコンピュータ用に設計されたものでも五000時間に過ぎなかった。多くの本数と短寿命、例えば一万本でコンピュータを作れば平均三0分に一度止まりその都度交換が必要となりとても実用的とは思われなかった。しかも戦後の物不足や資金不足も大きな障害であったが、とにかくこの記事を信じて日本で初めてのコンピュータに挑戦しようということになった。城研究室では一九四八年(昭和二十三年)から一九五二年(昭和二十七年)まで文部省科学研究各個研究費を毎年申請し三万円から八万円の交付を受けて日本で最初のコンピュータ開発がスタートした。
5.ENIACモデルの試作
城を中心とし、学生であった牧之内三郎や安井裕らによって、ENIACモデルの試作が開始された。まず二値方式すなわち0と一に対応させて真空管を不連続動作させる必要があった。それまで真空管は通信機や計測器用として使われている程度でいわゆるアナログ動作であった。城らはENIACと同じ不連続動作をさせる方法を色々考え、ついに当時放射線計数機をスタートストップさせる回路がこれと同じことを突きとめる。また多くの真空管を入手する必要もあった。たまたま大阪陸軍造兵廠の残務整理のため真空管を無料で払い下げるとの話しを聞き込み、喜こび勇んで一00本を申し込んだ。ところが当時真空管を一0本も使えば大規模な機器であり、そんなに大量に使うのは非常識だと失笑を買ったという。
さらにニューズウィーク誌の記事以上にENIACについて技術的に詳しく知る必要もあった。特に二値方式で演算装置を構成するための詳細を知る必要があった。そこで東京日比谷にGHQ(連合国総司令部)によって開設されたばかりの図書館に通うことにした。ここにはIREやエレクトロニクスなどの最新の学術雑誌が全てではないが多く揃っていた。城らは大阪から東海道線の上りの夜行列車に乗り込み早朝東京に着いて開館と同時に図書館で調べることを繰り返した。しかしコピー機など便利なものは勿論なかったため文献は手書で写真はトレーシングペーパでと悪戦苦闘したという。
そしていよいよENIACタイプの設計・組立てを行い、ついに一九五0年(昭和二十五年)一0進方式で四桁の加減算ができる演算装置を完成させた。このモデルではENIACと同じ一秒間に五千回相当の演算を行うことができた。城らはこの成果を「計算機械」と題する単行本にまとめ一九五三年(昭和二十八年)に発刊した。七章のうちの第五章二六ページをさいて、ENIACの回路動作の詳細を解説し次いで自作コンピュータを紹介した。ENIACから遅れること四年、その一部分であるが戦後の苦しい状況の中から、ついにENIACタイプの日本で最初のコンピュータの開発に成功した。
6.完全なるコンピュータを目指して
試作したENIACタイプのコンピュータは、今からみればコンピュータといえない面ももっていた。二値方式であったが演算方法は一0進法であり、ノイマンが「二進演算は他のどんな方法より特に一0進演算と比べて簡単で整然とした論理構造をもっている」と指摘していたように、二進演算が進んだ方法とみられていた。一0進演算は、計算入力・内部での演算・結果出力全てを一0進法で行うもので、二進演算は内部での計算は二進法で行うが入出力はそれを人が分かるように一0進法に変換するものであった。次の開発では二進演算を取り入れる必要があったが、それにはダイオードを大量に入手することが不可欠であった。当時最新のダイオードはゲルマニュームダイオードで国産品には無かったため、輸入する必要があった。輸入理由書の作成や国への申請など面倒な手続が多かったと城らは後に語っている。
またENIACは完全なストアードプログラム方式とはいえなかった。演算や処理手順をプログラムとして交換可能な形で電子的に蓄積させておくことが必要であった。そのためには真空管の0と一の二値状態で記憶させる方法が考えられるがこれでは多くの真空管を要する。そこで高速で大容量の蓄積できるハードすなわちメモリーが必要となる。当時メモリー用としては、ブラウン管記憶装置と超音波遅延記憶装置などが知られていた。前者はブラウン管の表面を帯電し電子ビームで二値に応じたパターンを与えて記憶させ、読み出しは再び電子ビームを照射させてピックアッププレートに二値に応じた電流を励起させるいうものであった。
後者は戦時中から知られていた方法で、水銀など媒体に二値電気信号を超音波に変換して伝播させ反対側に達するまでの遅延時間でメモリーする方法であった。しかしどちらも開発途中であり安定性に乏しかった。城らは超音波遅延記憶装置を採用したが、水銀の温度が変化すると密度が変わり超音波の伝播時間も違ってくるので、水銀の温度誤差を0・三度Cと厳しくコントロールする必要があった。
以上の検討のあと、さらに完全なるコンピュータを目指して開発が続けられた。一九五三年(昭和二十八年)には、それまでの研究成果をまとめて科学研究費を申請し、八0万円を得ることができた。
こうして一九五九年(昭和三十四年)まで開発が続けられ、阪大コンピュータはほぼ完成した。それは、二進演算方式を採用し、メモリーとしては当初水銀を用い後は安定性を確保するため媒体にガラスを使った超音波遅延記憶装置を使用し、記憶容量は一0二四語であった。使用真空管は約一五00本、ゲルマニュームダイオードも約四000本が使われていた。それを全巾四m高さ二・一mのパネルに配置して冷却は二台の扇風機で行なわれていた。計算速度は、クロック周波数を一MHZと今からみても高い値にしているため、加減算を一秒間に二万五千回行うことができた。
7.そしてさらなる発展
日本のコンピュータ黎明期に先頭を切って突走った阪大コンピュータ、その概要を紹介した。しかし実は日本のコンピュータにはあと二つのチャレンジがあったことがよく知られている。一つは富士写真フィルムの岡崎文次により一九四九年(昭和二十四年)に開発に着手し一九五五年(昭和三十年)に完成したFUJIC、他の一つは東大の山下英男らにより一九五一年(昭和二十六年)に開発が始まり一九五九年(昭和三十四年)まで続いたTACである。これらのうちどれを日本最初のコンピュータとするかは必ずしも明らかではないが、戦後すぐに開発に着手し一九五0年(昭和二十五年)に完成させたENIACモデルの設計者の城に日本最初のコンピュータ開発者の栄誉を与えても私は良いと思っている。
コンピュータは、その後半導体技術の長足の進歩により、真空管では大きな問題であった寿命や熱などの問題も解決し、また小型化・高速化が図られ実用的なマシンとなった。そしてホスト・ミニコン・オフコン・ワークステーション・パソコンなど用途に応じて各種のタイプに分化した。城が開発したコンピュータと今の小型のワークステーションとを比較すると、使用素子で一千倍、メモリ容量で六万倍、速度で一千倍、容積で二00分の一と隔世の感が強い。
その使われる分野も城が実験した円周率(π)や自然対数(e)などの技術計算ばかりでなく、今では高速・正確・大容量のコンピュータの特長を活かして、あらゆる分野に浸透している。それは冒頭で述べた稲作以上に戦後四0数年間の日本に大きな影響を与え続けてきたといっても過言ではない。
日本のコンピュータの先達であった城教授、先生はすでに鬼籍に入られたが、本稿を書くに当って大講義室で生徒の理解に関係なく黙々としかし張りのある声で工学部共通科目である「数学解析」を講義していた姿を改めて思い出している(文中の敬称は略させていただきました。また牧之内・安井両先生から取材と資料の提供をいただいたことを深謝いたします)。